◯帰路

帰 路

 帰りは急ぎに急ぎました。往路の8日間をわずか3日間で基地に戻っています。

南極の282kmを3日間で走り抜いた犬ゾリは今だかつてありませ ん。

それは食料が底を突き、残るはわずかのビスケットだけだったからです。

そのビスケットさえもアイヌ隊員山辺(やまのべ)は犬たちに分け与えています。

2月2日、鯨湾に白瀬たちを迎えにきた開南丸はボートを降ろしますが、南極特有のブリザードと、目まぐるしく変化する流氷に阻まれて接岸に難航します。

隊員を収容するのが精いっぱいでした。

そして犠牲になったのが20頭のカラフト犬です。

「氷の上で悲しい声で鳴きながら船を追いかけて来る犬たちを見て泣かない者はなかった」と犬係りの花守は述べています。

まさに後ろ髪を引かれる思いだったに違いありません。

 

後年(こうねん)、装備の整った南極観測船「宗谷」や「ふじ」でさえ、氷海に閉じ込められてソ連の「オビ号」に曳航されたり、第1次越冬隊が悪天 候のため15頭のカラフト犬を置き去りにしたことを思えば、わずか204トンの木造船「開南丸」が、猛烈なブリザードと流氷が迫り来る氷の海を脱出するの に如何に必死であったかが想像できると思います。

2月4日、ようやく氷海から脱出し危機を逃れますが、日夜気の許せない氷海の中で隊員、船員とも疲労は極度に達していました。

探検は初期の目的は達しというものの隊員の中には不満の声も少なからずあったといいます。

白瀬にしても心残りであったに違いありません。

すべて準備の立ち遅れと資金不足による退去でありました。

 

 

明治45年(1912)6月20日、開南丸は1年7カ月、4万800kmの大航海を終えて一人の死傷者も出さずに無事芝浦に帰還します。

 

アムンセンは北極海を縦横無尽に探検した経験豊かな探検家です。

スコットは2度目の南極点挑戦でした。

それに比べ白瀬隊は極地には全くの未経験 で、アムンセン、スコット隊が国の援助を受け、国の威信をかけた隊であったのに対し、白瀬隊は国からの援助は全くなく国民の善意による、いわば民間の探検 隊でありました。

ノルウェーの極地研究家イワール、ハムレ氏は「極地に全く未経験であった白瀬中尉の探検はすべての探検史上の一新機軸をなす大冒険であった。極点 に到達するには10度不足であることなど問題ではない。極地航路に慣れたフラム号ですら開南丸の冒険の半分も体験していないだろう」と述べ、航海技術の優 秀さをイギリス王立地理学会誌(geographicaljournal)に載せ、白瀬隊の苦難と勇敢さをたたえています。

また、後援会では探検の一部始終を「南極記」としてまとめていますが、後の日本の南極観測に大いに役立ったことは言うまでもありません。

しかし、探検後の白瀬を待っていたのは、国民栄誉賞でも叙勲でもありませんでした。

後援会は解散したため、当時の金額にして推定4万円。

今の金額にすると1億5000万円~2億円の負債を白瀬は背負うことになるのです。

自宅は勿論のこと軍刀、軍服まで売り払い、愛娘の武子を伴い日本は勿論のこと台湾、朝鮮までも借金返済のための講演行脚に出かけなければなりませんでした。南極の極寒にも増さる厳しくつらい旅だったにちがいありません。

 

 

 

文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)

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