◆1893明治26年《32歳》

  • 5月、矗は函館に単身。家族は仙台。

◇やす夫人は二男「教(おしえ)」を身籠っていました。

  • 千島探検

    千島列島と樺太

★国際情勢

△当時は外国からの脅威や圧迫がありました。大津事件でロシアは必ず仕返しにくると日本中の誰もが思っていたのです。仕返しがあるとすれば第一に考えられるのが千島列島を飛び石伝いに侵攻してくる路順です。

△千島は国民の強い関心を集め始めていました。明治天皇も心配して、侍従の「片岡利和」を千島に派遣して調査させました。明治24年10月、「千島探討の事、朕すこぶるその必要を認む」と詔書。千島探検は国家的事業という大義名分を持つようになりました。

★金浦では

△矗が千島探検を提唱したのと、「後援を熱望する」という手紙に、金浦の人々は熱狂的賛成し、米、味噌、醤油などの食糧品をはじめ、装備、衣類、大小にわたる道具、更には帆前船や船員まで調達しました。「中津三治郎、能藤博友、北能喜市郎ら」金浦の漁師たちはむかしから北海道あたりの漁場に出稼ぎにいく者が多かったのです。金浦の人々はもともと「外界」への関心が高かったのです。

★「郡司成忠(ぐんじ しげただ)」海軍大尉(幸田露伴の実兄)

△海軍大学校一期生。海軍士官のエリートコースを棒に振って執念の事業としての「千島行き」です。千島列島とその近海域は世界でも有数な漁場であり、ラッコ、オットセイ、アザラシなども多く、これらを狙った密猟者が各国から多数入り込んでいました。無防備、無政府状態だったのです。

△千島は、明治8年5月ロシアと日本の間で樺太と交換する条約が調印されて日本の領土となっていましたが、政府の目はほとんど届いていませんでした。無限ともいえる北洋の資源を確保する、千島の主権者たる日本の面目。北辺の防備に加え千島拓殖が国家の利益に必要不可欠と考えていました。そこで「報效義会」を東京に設立しました。千島開拓を呼びかけました。海軍の退職下士官を主体に構成し、千島への移住と拓殖を目的としたのです。

★白瀬の決断

△矗は、金浦からの援助と尽力に、故郷の有難さを痛感していました。

△しかし、郡司の千島行きの発表に大いに悩みました。

△「自分は千島探検が終局の目的ではない。北極探検の里程標として行くのだから、自分が隊長である必要はない。この上は、郡司大尉の遠征隊に協力してその一員として参加する」と決断したのです。

★報效義会への入会

△郡司は、矗が陸軍であることから断りました。

△矗は、「もし自分たち、陸軍退職者が船の生活に不馴れで、足でまといとお考えならば、決してご迷惑はかけません。自分たちは、独自に陸路をとって北海道まで参りましょう。その後、千島まで貴官の船に乗せていただきたい」。「それでは、陸行していただくことにして、函館でまたお会いしましょう」。と郡司33歳、矗32歳。

★千島へ

△郡司達は、明治26年3月20日、千島遠征隊は5隻の船に分乗して東京を出航しました。

△矗は、明治26年5月初旬、仙台を出発。
同行者4名(吉田良一、佐々木一造、倉本進、佐藤清)と共に函館に到着し、かつての教導団に在籍していた頃の友人「大松川省三」宅に滞在します。

△海路の郡司は5月20日、青森県鮫港に寄港します。

5月22日、激しい暴風雨に遭遇し1隻が沈没し、乗組員10名が行方不明となります。

5日後、別行動の鼎浦丸(かなえうらまる)が難破し乗組員9名が行方不明。

△白瀬のもとに、郡司の遠征隊の船が、青森県鮫港近くの白糠沖で、暴風雨のため遭難し隊員19名が死亡したと悲報が届きます。

6月5日、軍艦「磐城(ばんじょう)」に曳航されて短艇4隻が函館に入港しました。

△郡司は千島探検の中止を真剣に考えていました。矗は強硬に反対します。「この期に及んで計画を中止するのは、19名の尊い犠牲者を犬死させるだけであり、遂には勅語の精神にも背くことになる」と主張しました。

△隊員にも不平や不満がくすぶっており、遭難者の霊を弔うために営まれた函館の高龍寺での法要で爆発します。なだめ、押しとどめたのは矗でありました。もう一度、一致協力して、所期の目的を達すべき努力しようと説いたのです。郡司は千島探検の続行を決意しました。

6月12日午前4時、函館から千島へ向けて出港しました。千島漁場経営者「平出喜三郎」の持ち船「錦旗丸(1,000トン)」でした。

◇郡司成忠海軍大尉とその開拓事業体「報效義会(ほうこうぎかい)」が率います。

◇50人は順に「択捉(エトロフ)」「捨子古丹(シャスコタン)」「幌莚(パラムシル)」そして「占守(シュムシュ)」へ上陸します。

越冬(初年)

▲郡司成忠、阪本吉五郎、森音蔵、加戸乙平、上田幾之助、小野亀次郎、白瀬矗の7名が占守島、捨子古丹島に9名、幌莚島に1名が越冬します。

▲海岸結氷、寒暖計の水銀が7回も凝結、鉄が変色、荒れ狂う空と海と風!

▲穴小屋で焚火しても酸素不足でよく燃えないし、戸を開ければ雪が吹き込むという状態で暮らしました。

▲まさに、寒さが勝つか、身体が勝つかの闘いです!

第一次千島探検(7名越冬)

8月31日午前11時、占守島片岡湾に入りました。穴小屋づくりにとりかかります。深さ四尺(1.2m)、広さ四間に三間の穴に木材と雑草で屋根を造りました。

9月8日、全員穴小屋に移りました。

9月23日、軍艦「磐城」は占守島周辺の測量任務を終えて出航しました。

△7名が占守島で越冬することになりました。

11月3日、天長祭。

11月23日、新嘗祭。フィリップ酒を供えて式を挙げました。

11月24日、青森県沖で遭難した19名の弔魂祭。

  • 9月5日、二男「教(おしえ)」が誕生します。

◇しかし、翌年5月7日、わずか8カ月で早逝してしまいます。

◇『家族手当支給されず』→後に報效義会を脱会。

shirase100Shirase Spirit2016,shirasespirit,Textbook,workshop,テキストブック,ワークショップ◆1893(明治26)年《32歳》 5月、矗は函館に単身。家族は仙台。 ◇やす夫人は二男「教(おしえ)」を身籠っていました。 千島探検 ★国際情勢 △当時は外国からの脅威や圧迫がありました。大津事件でロシアは必ず仕返しにくると日本中の誰もが思っていたのです。仕返しがあるとすれば第一に考えられるのが千島列島を飛び石伝いに侵攻してくる路順です。 △千島は国民の強い関心を集め始めていました。明治天皇も心配して、侍従の「片岡利和」を千島に派遣して調査させました。明治24年10月、「千島探討の事、朕すこぶるその必要を認む」と詔書。千島探検は国家的事業という大義名分を持つようになりました。 ★金浦では △矗が千島探検を提唱したのと、「後援を熱望する」という手紙に、金浦の人々は熱狂的賛成し、米、味噌、醤油などの食糧品をはじめ、装備、衣類、大小にわたる道具、更には帆前船や船員まで調達しました。「中津三治郎、能藤博友、北能喜市郎ら」金浦の漁師たちはむかしから北海道あたりの漁場に出稼ぎにいく者が多かったのです。金浦の人々はもともと「外界」への関心が高かったのです。 ★「郡司成忠(ぐんじ しげただ)」海軍大尉(幸田露伴の実兄) △海軍大学校一期生。海軍士官のエリートコースを棒に振って執念の事業としての「千島行き」です。千島列島とその近海域は世界でも有数な漁場であり、ラッコ、オットセイ、アザラシなども多く、これらを狙った密猟者が各国から多数入り込んでいました。無防備、無政府状態だったのです。 △千島は、明治8年5月ロシアと日本の間で樺太と交換する条約が調印されて日本の領土となっていましたが、政府の目はほとんど届いていませんでした。無限ともいえる北洋の資源を確保する、千島の主権者たる日本の面目。北辺の防備に加え千島拓殖が国家の利益に必要不可欠と考えていました。そこで「報效義会」を東京に設立しました。千島開拓を呼びかけました。海軍の退職下士官を主体に構成し、千島への移住と拓殖を目的としたのです。 ★白瀬の決断 △矗は、金浦からの援助と尽力に、故郷の有難さを痛感していました。 △しかし、郡司の千島行きの発表に大いに悩みました。 △「自分は千島探検が終局の目的ではない。北極探検の里程標として行くのだから、自分が隊長である必要はない。この上は、郡司大尉の遠征隊に協力してその一員として参加する」と決断したのです。 ★報效義会への入会 △郡司は、矗が陸軍であることから断りました。 △矗は、「もし自分たち、陸軍退職者が船の生活に不馴れで、足でまといとお考えならば、決してご迷惑はかけません。自分たちは、独自に陸路をとって北海道まで参りましょう。その後、千島まで貴官の船に乗せていただきたい」。「それでは、陸行していただくことにして、函館でまたお会いしましょう」。と郡司33歳、矗32歳。 ★千島へ △郡司達は、明治26年3月20日、千島遠征隊は5隻の船に分乗して東京を出航しました。 △矗は、明治26年5月初旬、仙台を出発。 同行者4名(吉田良一、佐々木一造、倉本進、佐藤清)と共に函館に到着し、かつての教導団に在籍していた頃の友人「大松川省三」宅に滞在します。 △海路の郡司は5月20日、青森県鮫港に寄港します。 △5月22日、激しい暴風雨に遭遇し1隻が沈没し、乗組員10名が行方不明となります。 △5日後、別行動の鼎浦丸(かなえうらまる)が難破し乗組員9名が行方不明。 △白瀬のもとに、郡司の遠征隊の船が、青森県鮫港近くの白糠沖で、暴風雨のため遭難し隊員19名が死亡したと悲報が届きます。 △6月5日、軍艦「磐城(ばんじょう)」に曳航されて短艇4隻が函館に入港しました。 △郡司は千島探検の中止を真剣に考えていました。矗は強硬に反対します。「この期に及んで計画を中止するのは、19名の尊い犠牲者を犬死させるだけであり、遂には勅語の精神にも背くことになる」と主張しました。 △隊員にも不平や不満がくすぶっており、遭難者の霊を弔うために営まれた函館の高龍寺での法要で爆発します。なだめ、押しとどめたのは矗でありました。もう一度、一致協力して、所期の目的を達すべき努力しようと説いたのです。郡司は千島探検の続行を決意しました。 △6月12日午前4時、函館から千島へ向けて出港しました。千島漁場経営者「平出喜三郎」の持ち船「錦旗丸(1,000トン)」でした。 ◇郡司成忠海軍大尉とその開拓事業体「報效義会(ほうこうぎかい)」が率います。 ◇50人は順に「択捉(エトロフ)」「捨子古丹(シャスコタン)」「幌莚(パラムシル)」そして「占守(シュムシュ)」へ上陸します。 ◇越冬(初年) ▲郡司成忠、阪本吉五郎、森音蔵、加戸乙平、上田幾之助、小野亀次郎、白瀬矗の7名が占守島、捨子古丹島に9名、幌莚島に1名が越冬します。 ▲海岸結氷、寒暖計の水銀が7回も凝結、鉄が変色、荒れ狂う空と海と風! ▲穴小屋で焚火しても酸素不足でよく燃えないし、戸を開ければ雪が吹き込むという状態で暮らしました。 ▲まさに、寒さが勝つか、身体が勝つかの闘いです! ★第一次千島探検(7名越冬) △8月31日午前11時、占守島片岡湾に入りました。穴小屋づくりにとりかかります。深さ四尺(1.2m)、広さ四間に三間の穴に木材と雑草で屋根を造りました。 △9月8日、全員穴小屋に移りました。 △9月23日、軍艦「磐城」は占守島周辺の測量任務を終えて出航しました。 △7名が占守島で越冬することになりました。 △11月3日、天長祭。 △11月23日、新嘗祭。フィリップ酒を供えて式を挙げました。 △11月24日、青森県沖で遭難した19名の弔魂祭。 9月5日、二男「教(おしえ)」が誕生します。 ◇しかし、翌年5月7日、わずか8カ月で早逝してしまいます。 ◇『家族手当支給されず』→後に報效義会を脱会。NPO ShiraseNobu Antarctic expedition 100th anniversary Memorial Association