◆1894明治27年《33歳》

元旦2月12日、海岸が結氷します。

3月下旬、幌莚島の単身越冬の和田平八が死亡しました。

4月27日、南部方面の探検を行いました。探検隊は郡司と加戸乙平、白瀬矗、そしてシロとジョンの2頭の犬でした。

午前8時45分、川に添って東北方向にすすみました。10数分で丘陵に達します。後方に見える「幌筵島」の峯を測定します。8キロ進み、東北方向の丘陵間に碧水がみえました。(まるで反対の方角にきている。南へ方向を変え)8キロ進み、一段と大きな丘陵へ。沢を下り、丘に上り、南へ進みました。目的地の海岸を見下ろすところに出ました。夕刻、海岸にでました。吹雪となりました。丘陵を伝って湾の北端へと進みました。丘を下りてもう一度川のある海岸にもどり、野営しました。

翌日、午前5時半出発です。睡眠不足と疲労が抜けません。お互いに声を掛け合い励まし合って12キロほど進みます。足をすべらせたり、谷に落ちたり体力の限界近くまで酷使しました。これ以上の探検は・・・凍死か、餓死か・・・。基地に帰ることにしました。

◇基地の8キロ手前で郡司が歩行不能になってしまいます。28日正午ころ、矗が一人先行して基地へ帰り、残留組に救援を要請しました。無事に帰着する事ができました。郡司と加戸は目を痛め、郡司の足関節の痛みは中々治らなかったが、矗は、一夜ぐっすり眠った後はケロリとした顔で隊務に服し、炊事当番などにマメマメしく働いたのです。驚嘆すべき体力であります。

6月26日、軍艦「磐城」で捨子古丹島を訪ねると、9人のうち5人が行方不明、4人は小屋で死んでいました。

第二次千島探検(5名越冬)

6月28日午後3時半、軍艦「磐城」が姿をあらわします。「柏原艦長」に幌筵島の和田平八の死を伝え、その検証を依頼します。郡司の実父「幸田成延」が報效義会の若い会員5名を連れて来ていました。

△日清間の雲行きが険しくなり、一触即発の危機をはらんでる状況に、隊員の召集があるかもしれない。また、報效義会の千島拓殖という大事業を中断する訳にはいきません。父は郡司が心血注いで起こした事業であることを知っています。戦争が始まれば、予備役とはいえ海軍士官のエリートである息子は必ず徴用されることを知っていました。そこで、交代要員として5名を引き連れてきたのでした。

△郡司は若い会員の指揮を矗に依頼し、「迎えに来るから」と約束し、越冬交代を主張して聞かなかった幸田成延と一緒に帰ります。

7月1日午後3時、磐城は占守島沖に去りました。残ったのは矗と5人の若い会員の6名です。

10月1日、穴小屋から少し離れたところに竪穴を改造して単身穴居することにしました。矗は炉や暖房を必要としないし、来るべき北極探検のための心身の鍛錬だと思ったのです。

「占守島 10月よりは穴ごもり 明けくる6月 雪消ゆるまで」

「ひととせの 三つ二つは冬ごもり 無事に苦しむ占守島」

「飯を炊き 豆とゴマとをこね混ぜて これが占守の暮の餅つき」

「小豆餅 砂糖の代わりに塩ばかり 喉渇いて 水と情死」

△水腫病(すいしゅびょう)「壊血病」が一番恐ろしいです。からだのあちこちが腫れ上がり、激痛を発します。しかも知覚や意識は最後まで正常だから、患者は激痛に悶え苦しみながら死んでいくのです。

3月5日、杜川延三(24歳)が苦痛を訴えました。

4月19日「苦しい、苦しい、もう助からん、死ぬ前に神戸の楠公神社の羽二重餅を一つでいいから食べさせてくれ、ああ苦しい、もう死ぬよ」と目をつむった。

5月7日、御園生亀三郎(28歳)が同じ水腫病で死亡します。

5月13日、山本敏(21歳)も同じ病気で死亡。

△矗もこの病気に罹りました。発病後一週間は症状は極めて悪く、「オレもこれまでか・・・」と覚悟を決めたが、一時、絶食し、氷、水も絶った。すると、まもなく食欲が出て、快方に向かった。6月1日には全快している。恐るべき生命力、強靭極まりない体力である。

△葛原益吉が栄養不良と同僚の死にショックを受けて重度の神経症に陥ります。その後快方に向かい全快します。一番無事だったのは関誠一。しかし帰国の航海中大しけにあい行方不明になってしまいます。

△内地からの救援が、待てど暮らせどやって来ません。矗はイライラしていました。

千島列島のシュムシュ島での白瀬

7月1日、片岡湾南方4キロで外国船が座礁します。カナダ領ヴィクトリアの船「ブレンダー号」でした。船長の名は「ロック」。密漁船です。船内を臨検すると、ラッコやオットセイの毛皮を2~3,000枚も積んでいます。ロック船長は白瀬に「遭難」を報告しました。「日本からの来船を待って便宜を図る旨」申し渡します。ロック船長は驚きました。矗らの穴居生活が、これでも人間として生きていけるのかと思うほど無惨なものだったからです。同情し食糧、たばこ、衣類、書籍、新聞紙、弾丸、火薬類を幾ばくか贈ったのでした。

△そして日本と清国との戦争で日本が勝利したことを祝福しました。矗は初めて耳にする話でした。

△日清戦争は郡司らが占守島を離れたちょうど一ヶ月後の明治27年8月1日に清国から宣戦布告され、翌年2月の威海衛の海戦で事実上終結しました。郡司も戦役に従事しています。

△矗は「千島探険録」に「千秋の恨み言」と書いています。召集令状が7回留守宅に届くも、妻のやすは、その都度根室支庁に回送しました。根室支庁でも占守島まで届ける手段がなかったのです。故郷の金浦では「白瀬は戦争に行きたくないために、千島で越冬しているんじゃないか」と言われたりしました。この時期、親・兄弟をはじめ、親戚の者もみな肩身の狭い思いをしたのです。

◎陸軍武官結婚条例が廃止されます。(日清戦争)

shirase100Shirase Spirit2016,shirasespirit,Textbook,workshop,テキストブック,ワークショップ◆1894(明治27)年《33歳》 ◇元旦、2月12日、海岸が結氷します。 ◇3月下旬、幌莚島の単身越冬の和田平八が死亡しました。 ◇4月27日、南部方面の探検を行いました。探検隊は郡司と加戸乙平、白瀬矗、そしてシロとジョンの2頭の犬でした。 ◇午前8時45分、川に添って東北方向にすすみました。10数分で丘陵に達します。後方に見える「幌筵島」の峯を測定します。8キロ進み、東北方向の丘陵間に碧水がみえました。(まるで反対の方角にきている。南へ方向を変え)8キロ進み、一段と大きな丘陵へ。沢を下り、丘に上り、南へ進みました。目的地の海岸を見下ろすところに出ました。夕刻、海岸にでました。吹雪となりました。丘陵を伝って湾の北端へと進みました。丘を下りてもう一度川のある海岸にもどり、野営しました。 ◇翌日、午前5時半出発です。睡眠不足と疲労が抜けません。お互いに声を掛け合い励まし合って12キロほど進みます。足をすべらせたり、谷に落ちたり体力の限界近くまで酷使しました。これ以上の探検は・・・凍死か、餓死か・・・。基地に帰ることにしました。 ◇基地の8キロ手前で郡司が歩行不能になってしまいます。28日正午ころ、矗が一人先行して基地へ帰り、残留組に救援を要請しました。無事に帰着する事ができました。郡司と加戸は目を痛め、郡司の足関節の痛みは中々治らなかったが、矗は、一夜ぐっすり眠った後はケロリとした顔で隊務に服し、炊事当番などにマメマメしく働いたのです。驚嘆すべき体力であります。 ◇6月26日、軍艦「磐城」で捨子古丹島を訪ねると、9人のうち5人が行方不明、4人は小屋で死んでいました。 ★第二次千島探検(5名越冬) △6月28日午後3時半、軍艦「磐城」が姿をあらわします。「柏原艦長」に幌筵島の和田平八の死を伝え、その検証を依頼します。郡司の実父「幸田成延」が報效義会の若い会員5名を連れて来ていました。 △日清間の雲行きが険しくなり、一触即発の危機をはらんでる状況に、隊員の召集があるかもしれない。また、報效義会の千島拓殖という大事業を中断する訳にはいきません。父は郡司が心血注いで起こした事業であることを知っています。戦争が始まれば、予備役とはいえ海軍士官のエリートである息子は必ず徴用されることを知っていました。そこで、交代要員として5名を引き連れてきたのでした。 △郡司は若い会員の指揮を矗に依頼し、「迎えに来るから」と約束し、越冬交代を主張して聞かなかった幸田成延と一緒に帰ります。 △7月1日午後3時、磐城は占守島沖に去りました。残ったのは矗と5人の若い会員の6名です。 △10月1日、穴小屋から少し離れたところに竪穴を改造して単身穴居することにしました。矗は炉や暖房を必要としないし、来るべき北極探検のための心身の鍛錬だと思ったのです。 「占守島 10月よりは穴ごもり 明けくる6月 雪消ゆるまで」 「ひととせの 三つ二つは冬ごもり 無事に苦しむ占守島」 「飯を炊き 豆とゴマとをこね混ぜて これが占守の暮の餅つき」 「小豆餅 砂糖の代わりに塩ばかり 喉渇いて 水と情死」 △水腫病(すいしゅびょう)「壊血病」が一番恐ろしいです。からだのあちこちが腫れ上がり、激痛を発します。しかも知覚や意識は最後まで正常だから、患者は激痛に悶え苦しみながら死んでいくのです。 △3月5日、杜川延三(24歳)が苦痛を訴えました。 △4月19日、「苦しい、苦しい、もう助からん、死ぬ前に神戸の楠公神社の羽二重餅を一つでいいから食べさせてくれ、ああ苦しい、もう死ぬよ」と目をつむった。 △5月7日、御園生亀三郎(28歳)が同じ水腫病で死亡します。 △5月13日、山本敏(21歳)も同じ病気で死亡。 △矗もこの病気に罹りました。発病後一週間は症状は極めて悪く、「オレもこれまでか・・・」と覚悟を決めたが、一時、絶食し、氷、水も絶った。すると、まもなく食欲が出て、快方に向かった。6月1日には全快している。恐るべき生命力、強靭極まりない体力である。 △葛原益吉が栄養不良と同僚の死にショックを受けて重度の神経症に陥ります。その後快方に向かい全快します。一番無事だったのは関誠一。しかし帰国の航海中大しけにあい行方不明になってしまいます。 △内地からの救援が、待てど暮らせどやって来ません。矗はイライラしていました。 △7月1日、片岡湾南方4キロで外国船が座礁します。カナダ領ヴィクトリアの船「ブレンダー号」でした。船長の名は「ロック」。密漁船です。船内を臨検すると、ラッコやオットセイの毛皮を2~3,000枚も積んでいます。ロック船長は白瀬に「遭難」を報告しました。「日本からの来船を待って便宜を図る旨」申し渡します。ロック船長は驚きました。矗らの穴居生活が、これでも人間として生きていけるのかと思うほど無惨なものだったからです。同情し食糧、たばこ、衣類、書籍、新聞紙、弾丸、火薬類を幾ばくか贈ったのでした。 △そして日本と清国との戦争で日本が勝利したことを祝福しました。矗は初めて耳にする話でした。 △日清戦争は郡司らが占守島を離れたちょうど一ヶ月後の明治27年8月1日に清国から宣戦布告され、翌年2月の威海衛の海戦で事実上終結しました。郡司も戦役に従事しています。 △矗は「千島探険録」に「千秋の恨み言」と書いています。召集令状が7回留守宅に届くも、妻のやすは、その都度根室支庁に回送しました。根室支庁でも占守島まで届ける手段がなかったのです。故郷の金浦では「白瀬は戦争に行きたくないために、千島で越冬しているんじゃないか」と言われたりしました。この時期、親・兄弟をはじめ、親戚の者もみな肩身の狭い思いをしたのです。 ◎陸軍武官結婚条例が廃止されます。(日清戦争)NPO ShiraseNobu Antarctic expedition 100th anniversary Memorial Association