しらせクイズ2018【第5問】

白瀬が南極へ使った船の名前は?

(明治43年白瀬49歳)


後援会や朝日新聞社側が、600トン級の船を探すが・・・。

海軍が、「磐城(ばんじょう)」を貸しても良いということであった。

野村船長と村上濁浪が大隈重信の添書をもって、海軍次官「財部 彪(たからべ たけし)」少尉に面会。主旨説明をしました。

海軍大臣「斎藤 実(さいとう まこと)」に引き合わされ、海軍大臣も同意します。→軍艦磐城が南極探検用船として九分通り決定。
「どうやら目途がついたな・・・」と大隈も白瀬もそう思いました。

7月23日、野村船長は、「磐城(ばんじょう)」を見て「フネミタ ヨロシ アンシン」と電報します。

川崎造船所技師「寺井忍」と佐世保に係留中の元軍艦「磐城(ばんじょう)656トン」を見て後援会に連絡しました。

ところがその後、海軍が「貸してもいいが、このままでは遠洋航海には無理だ。補修費に10万円ほどかかる。それでもいいか・・・・」と言ってきたのです。

野村船長と寺井技師が判断したものを「使い物にならないだろう」、「10万円」というのは乱暴でベラボウです。
10万円で磐城クラスの木造艦なら2隻は作れます。
つまりは「貸せない」ための無理難題だったのではないでしょうか。
隊長の白瀬矗が陸軍であったからか・・・・

7月31日夜、神田青年館での講演演説会にて白瀬は、「8月5日は、予が出港予定の最終日である。予はこの日に至るまでにたとえ搭乗すべき堅固な探検船を得ぬとも、この身を一漁船に託して東京湾を出帆せんと思う。これはあるいは無謀かもしれぬが、不幸にしてこれがため死するも、恐らくは第二、第三の白瀬は予の死の影を見て立てることを信ず・・・」

「8月15日が出港予定の最終日である。この日まで船が見つからなくとも、この身を一漁船に託して、東京湾を出帆せんと思う・・・・」神田青年館での白瀬の演説は悲壮なものでした。

8月5日、出発予定日。しかし白瀬らは出発できず!延期。

8月15日、各新聞社は大隈重信後援会長名で、出発延期の弁明書を掲載しました。

英国スコット大佐の第二次南極探検船「テラノバ号」は705トン。

9月17日、後援会と朝日新聞が海軍省と折衝したが、海軍艦「磐城(ばんじょう)」の交渉不調。

木造スクリュー式三本マスト、656トンの「磐城」が廃艦になり、佐世保軍港に繋がれていました。(千島占守島に置き去りにされた時の軍艦)

「第二報效丸」!千島でサケ漁を終え東京に向かっている。

何という運命でしょう!
千島占守島越冬時代に、彼を置き去りにし、迎えに来なかった、郡司成忠海軍大尉の報效議会の持ち船である「第二報效丸」とは!

恨みはまだ消えていなかったに違いありませんが、背に腹は変えられません。
9月20日、第二報效丸が横浜港に入港し、白瀬は郡司に交渉します。

白瀬は村上と一緒に船を譲ってくれと相談に横浜へ行きました。
白瀬は郡司と10年ぶりに会いました。

郡司は、白瀬が南極探険を目指して準備中であることは知っていましたが、まさか自分に相談を持ちかけてくるとは考えてもみなかったのです。

即座に断ります。

白瀬は必死に頭を下げ懇願しました。
白瀬は、この船以外には目下、適当な船は見当たりませんでした。
必死に頭を下げ懇願しましたが、郡司は譲りませんでした。

村上濁浪は、かねてから幸田露伴に私淑(ししゅく)していたので、露伴に口添えを頼みました。

再度、白瀬と村上は第二報效丸に郡司を訪ねる粘りを見せます。
拒否の姿勢を崩しませんでしたが、夜半におよんでようやく郡司が折れました。

譲歩した郡司は白瀬に、カムチャツカや沿海州での水産組合長としての体験を語り、いろいろ南極探検についての助言を与えてくれるのでした

最終交渉は「大隈邸」で日を改めて行われました。

◇船の譲渡の条件
  船の代金は、              23,000円
  積んでるものの急速処分費用と賠償金が 2,000円
  合計で                 25,000円
  付帯条件として「探険が終わったら船を報效議会に払い下げること」

10月20日、後援会は、「第二報效丸」を探検船とすることを発表しました。

船籍が変わるので新しい船名は「開南丸」。

名付け親は、5年前の日露戦争でバルチック艦隊を全滅させた連合艦隊司令長官「東郷平八郎」海軍大将です。

18馬力の中古の蒸気機関を補助エンジンとして取り付けました。(大阪の頼田鉄工所より入手し石川島造船所で装備)125ccのバイク並み!204トンに!

船体に厚さ3インチ(7.6cm)、幅6インチ(15.2cm)の角材を巻き、その上に厚さ2分(6mm)の鋼鉄板を張り補強しました。(8尺(2.4m)周囲の氷塊には耐える見込み)

◇開南丸に要した費用
▲船舶購入費その他                 25,000 .00円
▲船舶登録料                      243 .75円
▲石川島造船所払、船舶氷海突入設備、船舶修理費    8,817 .00円
▲汽罐購入費及び運搬費                5,532 .01円
▲船具及びタンク購入費                4,318 .14円
▲石炭購入費                       480 .00円
▲合計                       44,390 .90円

補強費用は44,390円。
朝日新聞社が扱った募金額に相当します。
そのほかに、隊員や船員たちの手当、2年間の食糧や犬の糧秣、学術用機器、あるいは衣類、船具、雑具の購入費をどう賄うのか?
開南丸を出発させるためには、後援会が10,000円の借金をしなければなりませんでした。

10月21日付、「朝日新聞」が、後援から手をひきます!

もう10月になっています。当初発表した出発日から2ヶ月も遅れています。
しかし、新聞社が200トン足らずの木造船で南極探検を行うなどとんでもない、無茶だ、自殺行為だと言いだし、それでも強行するなら、これ以上協力はできない、手を引くと言い出します。

200トン級ではとても共同責任は負えない。

言い分は、「南極探険は、れっきとした学術調査のための事業であって、冒険家博打のように一か八かを賭ける道楽ではない。そんな道楽に社会の公器たる新聞が協力するわけにはいかない。」というものでした。

「翌年に延ばし、準備を整えるべきだ。」という進言にもかかわらず、無視され200トンの小船が探検船と決まったことに朝日新聞社は、にわかに態度を硬化させました。

「南極探険と本社―本社の義務責任の終了」を一面の約半分ほどのスペースで宣言しました。
「南極探険事業に関与した朝日新聞社の立場やこれまでの経過の説明、今日をもって本社の義務責任は全て終了し、今後いっさい関係なし!」と。
用船が無謀であるとして義金の引き渡しを拒みましたが、大隈が上野理一社長に手紙を送り、義金は後援会に引き継ぐことになりました。

11月21日、海事局の検閲のため「公式試運転」を行いました。

199トン明治43年の新造船、木造、三本マストの帆船にエンジンをつけて船体を補強し(204トンに)、試運転を11月21日午前7時に行いました。

しかし、小型の船のため「冷蔵庫」等も無く、後日ダメージを受けることになります。
また、通信機器も無く、ツンボ航海となるのでした。

11月24日、開南丸が一般公開されました。

「南極探険記念絵はがき(5枚一組)」を発行し縦覧料30銭を徴収しました。

来覧者は2日間で2,500人とまずまずの首尾でありました。

11月26日、後援会長「大隈重信」が早稲田の自邸に隊員全員を招いて正午から「告別壮行会」を行いました。

その後午後3時、日比谷公園音楽堂前で、一般市民の主催する「送別会」に隊員全員が出席しました。

熱烈なる声援を受けます。
大隈会長の代理として三宅雪嶺が「義金者の名簿が入った銅製の箱」と「日章旗」「探検隊旗」を白瀬矗に渡して「これを南極点に埋めて帰るべし」と演説しました。

11月28日午前7時、日比谷公園にて「おいとまごいの式」、午後1時、芝浦埋立地にて「送別式」

芝浦には5万人の群衆で埋め尽くされ、手には「南極旗」(三宅雪嶺(後援会幹事、文学博士)デザイン)を持って振っていました。

送別の辞で大隈重信伯「百発の空砲は一発の実弾にしかず」は名演説として知られます。

沖合の開南丸に赴く伝馬船を学生たちのボートが取り囲みます。

学術部員の「粟根銕蔵」(あわね てつぞう:広島県人、早稲田実業講師、天文・物理担当)が脱会してしまいます!
白瀬にとっては意外であり痛手でもありました。
隊員は27名となりました。

この壮行会には、やす夫人、長女のふみこ(当時19才)、二女のタケコ、弟の知行の長男「知教」も出席していました。
ふみこは「それはそれは盛んなものでした。ちょうど私が奈良女高師に合格した頃のことで、父も非常に喜んでくれました。芝浦には妹のタケコも一緒でした。」と語っています。

11月29日、出航!

積荷作業の遅れと干潮による船底のつかえで出航できず、29日に持ち越されました。

午後0時30分、開南丸はやっと芝浦の岸壁を離れました。
隊員一同は整列して、岸壁の人々の見送りに答礼しつつ遠ざかる故国を見つめていました。

白瀬中尉は、11歳にして探検家を志して以来、ほぼ40年、この日のために身体を鍛え、心を鋼鉄のように練り上げてきたのでありました。

白瀬は「これまでの辛苦や心労の数々が走馬燈のように駆け巡った。
この数ヶ月間の準備期間が一番辛かった」と実感のこもった言葉を言っています。

この時点で、ライバルのスコット隊はニュージーランドのダニーディンを出航していました。このことを白瀬たちは知りませんでした。

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