しらせクイズ2018【第6問】Kids[No.4]

白瀬矗が南極探険に用いた船の船長は誰でしょう?


明治43年、隊員や船員として参加したいという申込みが相次ぎました。

6月初め、岡山県人「多田恵一」(当時27歳)が会いに来ました。

山崎という先輩から勧められ、「押川方義おしかわ まさよし:仙台・東北学院創立者)」の紹介で白瀬に会います。

翌々日、青森県人「野村直吉」(当時43歳)が参加しました。

野村は、「自分は給料など望まぬ。探検隊の船長という名誉をまっとうすれば十分なのだ!」と言いました。

探検船船長「野村直吉」は、航路略図を示しつつ、南極への行きと帰り、隊員の安全を保障し、誓って無事帰還させることを宣言しました。

今度は「計画説明」あるいは「決意表明」です。


明治44年の3月9日、海が全面凍結しつつあるのを知ります。

さらに進むにつれて氷の厚さも15センチ、20センチ、30センチとドンドンかさみ、東経172度7分、南緯74度16分(ロス海コールマン島沖)に達したときには60センチになっていました。

わずか、204トンの開南丸ではここらが限界でした。

これ以上進もうとすれば船がバリバリ解体しそうな音を出します。

ついには、帆をいっぱいに張り、補助エンジンを全開にしても、船は全く動かなくなったのです。

これでは、氷海に閉じ込められたまま、越冬しなければならなくなる恐れがあります。

連日の悪天候、悪気象、暴風雨、濃霧、風位不定、逆潮流、大波浪などに翻弄され続けました。「吠える40度」「怒れる50度」

犬が4頭死ぬ。残った犬は3頭。これでは上陸しても荷物の運搬はできません。

3月14日夜、白瀬は、緊急幹部会議で無念の退却を決定します。

緊急幹部会議

退却もまた勇気でした。席上、だれひとり口を開くものも無く、落胆失望のふちに沈んでいました。

ウェリントンから上陸予定地の南極エドワード7世州までは、直線距離でざっと4,300㎞。あと1,000㎞を残して悲痛なUターンでした。

「船首を回すときの苦心は大変だった。エンジンが18馬力と小さいから、船体をバックさせるわけにもいかない。やっと堅氷を砕きながら船首を風下の方に向け、危地を脱した。全く命拾いの感があった」と南極記に記載があります。

「全力を尽くして南進し、極点に少しでも近い上陸地点を探すことに努力する」としましたが、3月14日、「氷塊が一面に流れていて、先が見えない。氷が張りつめてくると、何里も氷河のように続く。船が氷圧で軋みだす。みんなが大騒ぎして、てんでに棒を持って氷をつっぱる。もうダメだと何回となく思った」。

野村船長は白瀬に「こうした状況では、71度にも2度にも上陸は不可能である。事態は今や一刻の猶予もならない。このままぐずぐずしていると、船はたちまち氷に閉ざされて身動きならなくなる。ここは一旦豪州に引き返して、今秋の解氷期を待って、挑戦すべきである」と進言しました。

白瀬は3月14日夜午後8時、全員を集めてシドニーに反転することを告げました。
地点は南緯74度16分、東経172度07分、コールマン島付近でした。

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