しらせクイズ2018【第7問】

「南極探険後援会」の会長は誰か?


明治43年7月5日(日)、「南極探検計画発表演説会」を、神田の錦輝館(きんきかん)で開催します。

白瀬は「きょうが勝負だ!」と、そう自分に言い聞かせていた。
永年の宿願が実現するもしないも、きょうの結果しだいだと思ったからです。
“国民的壮挙”と受けとるか、はたまた、“誇大妄想のペテン師”と罵倒するかは、やってみなければわからないことと思っていました。

当時、神田の錦輝館といえば、芝居や演劇、演説会の貸席としては一番大きなところでしたが、2、3時間も前から並び始め、開場時には長蛇の列ができました。
それでも2,000人くらいの人が入場できなかったと言います。

錦輝館前に並ぶ人々の行列

来賓席に「林 太一郎」第一旅団長

弁士席に「大隈 重信」伯爵(早稲田大学創立者)

幹事役は「村上 濁浪」(成功雑誌社社長)

後援者は、「佐々木安五郎(山口県選出代議士)」、肝付兼行(海軍中尉)、三宅雄二郎文博(号雪嶺)、桜井熊太郎(弁護士)、大石正巳(高知県選出代議士)・・・・

村上濁浪が開演の挨拶に立ち、南極探検の意義と、この演説会の目的を話します。

次に後援者たちの熱烈な応援演説が繰り広げられました。

大隈重信

「中尉の壮挙は世界的行為であり、この事業の成功により人類の福祉は、非常に増進するのみならず、探検には無縁のように思われている日本を、これによって世界にしらしめるようになろう。時期は切迫している。大いに醵金(きょきん)するところあって、この勇壮なる探検隊を送り、成功せしむるは、天下の快挙であるまいか・・・」と。満場は興奮のるつぼと化しました。

同日夕方、『南極探検後援会』が結成されました。

幹事は「三宅雄二郎文博」、「佐々木安五郎」、「桜井熊太郎」、「押川方義(東北学院創立者)」、「田中弘之」、「村上濁浪」。

後援会事務所は、本郷区弓町一丁目一一の村上濁浪宅

会長は「大隈重信」。

事務所はとりあえず「村上濁浪宅」。

早速、各新聞社が事業協力を申し入れてきました。
朝日新聞社は5,000円の寄付をすると同時に「義金募集のキャンペーン」を展開することになりました。
義金の締め切りは8月5日限とし、一口金50銭以上とされます。(新聞購読料が月額45銭)

空前の「南極探検ブーム」が現出しました。


明治43年11月26日、後援会長「大隈重信」が早稲田の自邸に隊員全員を招いて正午から「告別壮行会」を行いました。

その後午後3時、日比谷公園音楽堂前で、一般市民の主催する「送別会」に隊員全員が出席しました。

熱烈なる声援を受けます。
大隈会長の代理として三宅雪嶺が「義金者の名簿が入った銅製の箱」と「日章旗」「探検隊旗」を白瀬矗に渡して「これを南極点に埋めて帰るべし」と演説しました。

11月28日午前7時、日比谷公園にて「おいとまごいの式」、
午後1時、芝浦埋立地にて「送別式」

芝浦には5万人の群衆で埋め尽くされ、手には「南極旗」(三宅雪嶺(後援会幹事、文学博士)デザイン)を持って振っていました。

送別の辞で大隈重信伯「百発の空砲は一発の実弾にしかず」は名演説として知られます。

沖合の開南丸に赴く伝馬船を学生たちのボートが取り囲みます。

学術部員の「粟根銕蔵」(あわね てつぞう:広島県人、早稲田実業講師、天文・物理担当)が脱会してしまいます!
白瀬にとっては意外であり痛手でもありました。
隊員は27名となりました。

この壮行会には、やす夫人、長女のふみこ(当時19才)、二女のタケコ、弟の知行の長男「知教」も出席していました。
ふみこは「それはそれは盛んなものでした。ちょうど私が奈良女高師に合格した頃のことで、父も非常に喜んでくれました。芝浦には妹のタケコも一緒でした。」と語っています。

11月29日、出航!

積荷作業の遅れと干潮による船底のつかえで出航できず、29日に持ち越されました。

午後0時30分、開南丸はやっと芝浦の岸壁を離れました。
隊員一同は整列して、岸壁の人々の見送りに答礼しつつ遠ざかる故国を見つめていました。

大隈は議会に請願書を提出し国庫補助を仰ごうとしました。
請願した下附金は53,000円であったが、衆議院を通過したものの政府はこれを握りつぶしたのです。

政府は第二次桂内閣で、首班の桂太郎は長州人です。
長州藩閥として山県有朋がいますが、大隈とはいわば「政敵」であったのです。

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